「石川啄木の下宿跡」。

(あしあと その676・北区の65・北大周辺の8)

JR札幌駅北口前のビル街の一角に、1階が開放されたフロアとなっているビジネスビルがあり、その入り口にブロンズ製の胸像が置かれています。

若い青年の胸像はガラス製の箱で囲われており、その台座の正面には「石川啄木」と記された説明板が取り付けられています。

そこには、

「石川啄木 「秋風記」

札幌は寔(まこと)に美しき北の都なり。初めて見たる我が喜びは何にか例へむ。アカシアの並木を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ。

札幌は秋風の国なり、木立の市(まち)なり。おほらかに静かにして人の香よりは樹の香こそ勝りたれ。大なる田舎町なり、しめやかなる恋の多くありさうなる郷(さと)なり、詩人の住むべき都会なり。」

と記され、その下に「この胸像は、昭和51年2月20日に北区在住の葛西茂雄氏から寄贈されたものです。」と付記されています。

胸像に向かって左側には、北区が設置した説明板が立てられており、そこには石川啄木の肖像写真とともに、次のように記されています。

「石川啄木の下宿跡

詩人・石川啄木が函館から札幌入りしたのは、明治40年(1907年)9月14日のことである。札幌停車場に午後1時すぎ到着した啄木は、詩友・向井夷希微(いきび)らに迎えられ、彼らの宿でもあった「北7条西4丁目4番地・田中サト方」の住人となった。時に満21歳。ここはその下宿があった場所である。

滞在2週間であわただしく札幌を去るが、勤め先の北門新報に「札幌は寔に美しき北の都なり」の印象記を残し、またしても小樽、釧路へと放浪の旅に出た。」

ここに記された一文は、明治40年9月18日付の北門新報に掲載された記事の一部で、北門新報は、後の北海タイムスに発展する地方紙になります。函館日々新聞の職を得て新聞記者となった啄木ですが、函館大火により会社が消失してしまい、生活に困り果てていたところに、友人の向井永太郎から北門新報社に職があるとの知らせを受けて来札しました。

この一文は、大通公園にある「石川啄木歌碑」にも掲げられています。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(東部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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