「あいの里 開発記念之碑」。

(あしあと その711・北区の68・あいの里の3)

あいの里の住宅地の中にある拓北会館の敷地の一角に、自然石でできた巨大な石碑が置かれています。

白御影石で作られた台座上の中央に、大きな自然石がセメントで固められていて、その上に大きな石碑が載せられています。碑面には大きく「あいの里 開発記念之碑」と刻まれ、その横に「札幌市長 板垣武四」と添えられています。

台座の正面には、黒御影の石板が台座に立てかけるようにして斜めに置かれており、そこには、

「此の地域一帶の開拓は明治十五年畑作藍の耕作に始まる民間資本の投入による大規模組織的開拓の嚆矢であった先人達は頻発する天才と挫折に耐え此の地の農業を次第に安定させのち雑穀主体有名馬産地としての歩程を辿る大正末期には造田が開始され昭和二十年代には水田主作が確立同四十年篠路地区随一の米生産地となった昭和四十五年に始まる稲作生産調整により大巾休耕転作の止むなきに至り営農の指標を定め難き折しも石狩湾新港に呼応する宅地開発の札幌市長構想を知り昭和四十八年五月地区有志相謀り同年七月四十七名を以て拓北宅地開発期成会を設立日本住宅都市整備公團と折衝に入った大規模にとの要望に応え不賛同地主を積極的に勧誘最終七十六名の会員となる昭和四十八年十二月二十五日土地区画整理事業として契約成立同五十四年着工工事施工は北海道住宅供給公社である開拓当時の故事にちなみ「あいの里」と命名された茫漠たる原始の地に開拓の鍬が打ち下ろされて百星霜余かつて農地として開発された此の地が今三万有余の人口を収容する大住宅地に変容する時の流れを思い昔日の感にたえず此の地の農業の終焉に当り先人の労苦を偲び顕彰し往時の歩程を後世に伝えんと此の碑を建立する

昭和三十七年十一月二日 吉成數也書」

と刻まれています。

台座の背面には、「会長」、「副会長」、「会計」、「監事」、「幹事」の役員のほか、「釜谷臼」、「山口」、「興産社」、「不在地主」のそれぞれの地域の地主氏名が多数刻まれた黒御影の石板がはめ込まれています。「釜谷臼」は現在のあいの里の東部、「山口」は同じく北部、「興産社」は中央部から西部にかけてのかつての呼び名になります。この石板の左右の台座が破損していることから、石碑の周囲が柵で囲まれていてそばに近づけないようになっています。

石碑の前には説明板が立てられていて、そこには

「あいの里開発記念之碑

米の一大生産地から「あいの里団地」へと造成工事が本格化していく中で、拓北宅地開発期成会が昭和57年(1982年)に建立した。

白みかげ張り30センチメートルの台座の上に自然石を並べ、その上に日高産の赤石、高さ1.6メートルを添えてある。碑前に黒みかげ製の碑文がある。」

と記されています。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(東部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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