(あしあと その197・北区の10・篠路の5)
「宮西頼母歌碑」の左隣に並んでいる自然石でできた石碑が「拓北記念碑」です。碑面には大きく「拓北記念碑」と刻まれ、その左脇には碑文の揮毫が「北海道知事 堂垣内尚弘」によるものであることが刻まれています。
碑の台座の正面には、黒御影石の石板がはめ込まれ、それには
「碑文
拓北地区は明治十三年頃より開拓が始まる 始め藍の栽培がなされ成果をあげたこともあるが次第に雑穀等に移る大正末期から昭和初年にかけて石狩川より水を引き水田を造成し土功組合が設置された 区域(興産社 釜谷臼大野地)は泥炭地が多く用水路の決潰も度々で播種期の遅延 冷害 水害等に耕作農民は疲弊に陥る よって地主吉田農場より北海道拓殖銀行の管理となる 戦時中を経て昭和十九年自作農を創設し農地は解放される 昭和二十四年法律の改正により土地改良区が制度化されて区域(甲区は興産社釜谷臼乙区は横新道 学田 茨戸)は防風林の造成 客土等によって漸く地味も肥沃となり良質米の生産地となる 昭和三十八年頃より都市化の影響により住宅団地の造成 米の生産調整 乙区地域の脱退等と相抹って昭和四十九年日本住宅公団が区域の大部分を買収することになり本土地改良区は清算段階に入り水田耕作に終止符をうつことになる こうしたことによって新たなる町の進展の時に当り 往時を偲び永く後世に伝えたくこの碑を建立する
昭和五十四年十二月 篠路拓北土地改良区」
と刻まれています。
また台座の背面にも同様に石板がはめ込まれていて、それには「歴代拓北土功組合長」、「歴代篠路拓北土地改良区理事長」、「役員」、「組合員」、「清算人」、「相談役」の氏名がそれぞれ刻まれています。
相談役に挙げられた中に、歌人の宮西頼母の名前が記されているのがわかります。
0コメント