「北海道百年記念」碑。

(あしあと その198・北区の11・篠路の6)

興産社の碑群の中でも比較的新しいのが、「北海道百年記念」碑です。

白御影石でできた石碑の一部に黒御影石の石版がはめ込まれており、そこには「北海道百年記念 北海道知事 町村金五 書」と刻まれています。碑面には、

「開拓記念碑案内標

この碑は 頌徳碑と称し 滝本五郎を顕彰して建立されたものなり 滝本五郎は 天保七年一月二十四日徳島県に生まる 明治十五年北海道に移住 篠路に於て 未開地九百二十四万平方米の払い下げを受け 実弟阿部興人等と 篠路興産株式会社を設立し 郷里より引率したる農民と共に開拓に務むその間 諸種の災害に遭うも屈せず 藍の栽培を試み成果を収め 博覧会等に賞を受け 篠路の開発に多大の功績を残せり 明治三十二年十月九日病歿 行年六十四才 翌年同郷人謀り 手稲方面より碑石を運び之を建つ昭和十四年現在地に移設す 碑文は 侯爵蜂須賀茂昭の揮毫なるも 永年の風雪にて殆どが消え去る 時に今年開道壱百年に当り これを記念し 開拓の功績を後世に伝えん為有志相謀り之が案内標を建立す

昭和四十三年八月十日 開拓記念碑 案内標建設期成会」

と刻まれています。

実は、この碑面に記されている「開拓記念碑」とはどの碑を指すのかが判然としません。碑文の冒頭に「この碑は 頌徳碑と称し」と記されていますが、その碑を示すと思われる後方にある自然石でできた碑には、「報徳碑」とされています。ただ、「さっぽろ文庫45 札幌の碑」には、この「報徳碑」が「滝本五郎「頌徳碑」」であり、「正面上部に右書きで「頌徳碑」と大書し」と記されており、さらには「北海道百年記念」碑は副碑であると紹介しているので、それが正しいものと思われます。なぜ後方にある碑が「報徳碑」とされているのかについては、改めて紹介することにしますが、「頌徳碑」の碑面の風化が著しいため碑文を金属板とした際に誤植したのではないかと思われます。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(東部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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