「芥子澤新之介歌碑」。

(あしあと その202・豊平区の22・月寒公園の1)

豊平区役所の東側に、羊が丘通を挟んで広がる広大な月寒公園。ここは、かつての大日本帝国陸軍第7師団歩兵第25連隊の演習場でした。今では野球場やグラウンド、ボート池などが整備されて、豊平区民のみならず札幌市民の憩いの場となっています。公園の一番南側に高台野球場がありますが、その駐車場の近くに新しく整備された芝生の一隅あるのが、自然石でできた「芥子澤新之介歌碑」です。

碑面には、「あかしやは花の さく日も静かにて すでにちりくるさ むき地のうへ 新之介」と刻まれています。

碑の背面には、画家である坂本直行による碑文が刻まれており、それには

「昭和四十一年十一月九日 平岸を愛しこの地に没す

昭和四十七年十一月九日 芥子澤新之介を偲ぶ会 坂本直行 書」

と記されています。

碑の左側には真新しい説明板が建てられていて、それには

「【芥子澤新之介歌碑】

「あかしやは花のさく日も静かにて すぐにちりくるさむき地のうへ 新之介」

この歌は、散策の道すがら目にふれた情景を詠んだもので、初夏でもまだうすら寒さの残る、北海道の気候風土をとらえ、微妙な味わいを醸し出している。なお、歌碑の筆跡は新之介の直筆を拡大して刻んだものである。

《芥子澤新之介 略歴》

本名:田中彌藤次

・明治27年三月、新潟県白根村(現新潟市白根地区)に老舗酒造家の9人兄弟の末っ子として生まれる。

・明治36年、歴代続いた老舗が倒産、父と姉は新天地を求めて帯広に、新之介は兄に連れられ、旭川に移住。

・小樽高商(現小樽商大)を経て、大正2年、早稲田大学に進学。

・当時、詩、短歌、童謡の分野において、短詩文芸の世界に新風を吹き込み、名声を博していた北原白秋に師事していた友人に刺激を受けて短歌の道に入る。

・大正6年、短歌結社「アララギ」に入会し、厳しい写生に立脚した格調高い歌を詠むことで有名な島木赤彦に師事し愛顧を受ける。

・大正6年、早稲田大学を卒業、日鉄鉱業、雪印乳業に勤務。

・大正7年、歌誌「冷光」、昭和2年「吾が嶺」創刊。

・昭和10年、北原白秋の「多磨」創刊に際して、第一同人として「多磨」札幌支部発足。

・戦後、宮柊ニ主宰の「コスモス」に参加、昭和31年、歌誌「いしかり」を創刊。北海道歌壇に大きな功績を遺す。

・昭和41年、71歳で逝去。自我に徹し孤独を慈しむ作風は、人間生来の哀愁と寂寥感が融合し、そくそくと胸に迫る作品を多数遺した。

・昭和47年11月、多くの賛同者により結成された「芥子澤新之介を偲ぶ会」により歌碑が建立される。」

と記されています。

東延江氏が著した「文学散歩 北海道の碑」によると、ここに刻まれた碑歌は、芥子澤の歌集である昭和35年刊の「雪国の絵本」に掲載された歌であることが記されています。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(東部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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