「吉田善太郎功労碑」。

(あしあと その234・豊平区の32・月寒公園の6)

月寒神社の境内に沿った月寒公園の敷地には、以前はパークゴルフのコースが設けられていましたが、最近公園内の整備が行われて散策路や芝生に代わり、その一隅に巨大な碑が2基並んで建っています。

その向かって右側に位置しているのが、「吉田善太郎功労碑」です。台座を含む高さが約7メートルほどにもなる巨大な石碑の周囲は、鎖で囲まれていて間近に見ることができず、風化しつつある碑銘を判読することは非常に困難です。資料によると、碑面の上部には、歩兵第25聯隊長であった稲村新六大佐の書になる「開拓餘光」の篆額が施され、その下には当時の官幣大社札幌神社宮司であった額賀大直の書になる碑文が刻まれているそうです。

碑の台座の背面には石板がはめ込まれていますが、そこに刻まれた文字はほとんど風化して判読できません。資料によると、碑の建立に尽力した関係者の氏名が刻まれているそうです。

碑の前には説明板が建てられていて、それには

「【吉田善太郎功労碑】

この碑は、生前の吉田善太郎の業績をたたえて、大正2年11月(※明治43年11月との説もあり)、地元の有志をはじめ、多くの賛同者の手によって建てられました。

吉田家は旧士族で、代々南部藩に仕えていましたが、明治維新によって藩が廃止されたため収入が途絶え、生活することが困難になっていたことから、44戸の月寒組開拓移民団に加わって、北海道に移住することになりました。

吉田善太郎は、父善治の6男1女の長男として、文久元年(1861)4月17日、岩手県南岩手郡上田村で生まれ、移住してきたときは10歳でした。

農業の経験に乏しい吉田親子にとっての開墾作業は、まさしく闘いそのものでしたが、旧士族の誇りを捨てず、堅実に耕地を広げ、炭を焼いて売り、雑役を拾い、ひたすら資力の蓄積に励みました。

明治14年父善治亡き後、長男善太郎は弱冠20歳の家長として一家を支え、資力を活用して農業開発の努力を惜しまず、独立心のある小作農には土地を譲り、多くの自作農を輩出させました。

善太郎の業績のなかで特筆されるのは、清田から北野、大谷地、下白石を経て月寒川に至る、延々6kmに達する水田用水路を造りあげたことです。

善太郎は、郵便局長をはじめ多くの公職を努め、大正2年の大凶作のときは、所有地を抵当に資金をつくり、それで救済事業を起して農民を助け、多くの人々の敬慕を集めました。

現在、月寒公園にある善太郎の碑石は、彼を慕う青年たちが、コロ(細い丸太)を使って、手稲山から3日がかりで運んできたものといわれています。

善太郎は、明治の気骨を失うことなく、強固な信念をもって生き抜き、町政の発展に大きく寄与し、数多くの業績を残しましたが、大正5年11月、55歳の生涯を終えました。」

と記されています。

吉田氏は、明治14年に家長となり、その当時で月寒、東月寒、清田、北野、大谷地、下白石に渡る土地を開墾して資力を蓄積し、明治20年には月寒、白石の土地を譲り受けたほか、隣接する土地の貸下げを受け、計約23万坪にも及ぶ広大な土地を開墾しました。明治24年には清田の厚別川から端を発して大谷地の月寒川に合流する用水路を共同作業で作り上げ、広大な田畑の開墾に寄与しました。用水路の一部は吉田川と呼ばれ、現在も吉田川公園の近くにその形をとどめています。また、明治29年には、月寒に駐屯することになった陸軍第7師団独立歩兵大隊(後の歩兵第25聯隊)の駐屯地に吉田氏の土地が提供され、さらに吉田牧場の土地の一部は現在の八紘学園として活用されるなど、札幌南東部の発展に寄与した氏の業績は多大なものがあります。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(東部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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