(あしあと その233・豊平区の31・月寒公園の5)
月寒神社の社殿近くに、がっしりとした石積みの台座の上に、ひときわ大きな自然石でできた碑が建っています。これが、日露戦争で散った豊平町出身の兵士たちの霊を慰めるために建てられた月寒「忠魂碑」です。
台座を含めた高さが約7メートルにもなるため、下から見上げただけでは碑銘のほかの文字が判読できませんが、資料によると、「忠魂碑」と筆太に彫られた碑銘の脇に「陸軍大将子爵 大迫尚敏書」と刻まれているそうです。また碑の背面には、「大正四年八月建之 在郷軍人會豊平町分會 豊平町有志」と刻まれているそうです。
碑の前に説明板が建てられていて、それには
「【月寒忠魂碑】
この碑は、明治37~38年の日露戦争で戦死した旧豊平町出身の兵士の勲功をたたえ、その霊を慰めるために大正4年8月、在郷軍人会豊平分会の有志により建てられました。
当時、わが国には徴兵令がしかれ、満20歳に達した男子に、兵役の義務を課しました。北海道に徴兵令が適用されたのは、明治29年4月からでした。
明治29年12月、月寒に第7師団の独立歩兵大隊が設置され、各部隊の編制整備が行われました。
その後も、富国強兵の国策に基づいて、軍備は増強の一途をたどり、やがて日露戦争が始まりました。
第7師団の各部隊は、最も激烈を極めた旅順要塞(※遼東半島先端部の旅順にあった要塞)の攻防戦に参加したこともあり、多数の犠牲者を出す結果となりました。
この戦争は日本の勝利に終わり、第7師団は、明治39年3月までに全部隊が凱旋し、沿道は日の丸の小旗をうち振り、万歳を歓呼する人波に埋まったといわれています。
しかし、遠い異国の戦場に散った兵士たちの遺族は、歓呼の声とその人波をさけて、肉親を失った悲しみに耐え、長い時間をかけて、心の傷を癒していったのでした。
昭和初期までは毎年盛大に慰霊祭が行われていましたが、平和公園(月寒西2条7丁目)に月寒忠魂納骨塔ができてからは参列者も少なくなったといわれています。」
と記されています。
碑銘を揮毫した大迫尚敏(おおさこなおはる)は、日露戦争の際の第7師団の師団長を務めた人物です。この戦功によって子爵に叙され、その後明治天皇に殉死した乃木希典に代わって、学習院長に就任しました。
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