(あしあと その311・北区の21・篠路の15)
篠路神社の広大な境内の一隅に、ひっそりと佇む二基の石碑。左側のひときわ大きな石碑が「馬魂碑」です。
台座の上に角の丸い白御影石でできた碑が載っていて、碑面には大きく「馬魂碑」と刻まれています。石碑に向かって右脇には、ひざまづいた馬の上半身を象った石像が添えられていますが、以前は馬の全体像であったようです。
台座の正面には、
「明治三十三年眞駒内種畜場よりペルシュロン払下げ爾来大正年間には十四頭の牝馬払下げをうけ石狩ペルの主産地となる馬産熱益々盛んになり昭和二十五年碑を建立今日に至るも機械化農業となり種馬場閉鎖敷地を地主に返還するよって現在地に移設する昭和四十四年五月吉日馬産振興会有志一同」
と刻まれています。
碑の背面には、この碑により慰霊されている「ヴヰリュー號・アニー號・第3啓春號・第2コーガル號・バンク號」の5頭の馬の名前が刻まれています。
石碑の右側には説明板が建てられており、それには、
「篠路神社の馬魂碑
篠路村の馬の歴史は明治15年(1882年)、徳島県人滝本五郎が興産社を組織して大農式農業経営を計画して、15頭の馬を導入したのがはじまりで、大正15年(1926年)にはフランスからペルシュロンの種牝馬(アニー号)を輸入するなどして、馬産改良に大きな成果をあげた。昭和29年の976頭をピークとした馬の歴史は農業の機械化により昭和50年代に幕を閉じた。農業経営の動力として、また貴重な収入源としての農業の担い手であった篠路名馬を称えるため、アニー号など5頭を合祀している。昭和44年(1969年)に建立された。」
と記されています。
ここに記された滝本五郎については、篠路の郊外にその功績を称えた「報(頌)徳碑」が建てられています。
この「馬魂碑」は、昭和25年に上篠路にあった種馬場に建てられましたが、その後の農業の機械化に伴って種馬場が閉鎖されたため、現在地に移設されました。篠路地区にはこのほかにも馬の霊を慰めるための碑が数多く残っています。
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