「謝恩之碑」。

(あしあと その316・厚別区の3・厚別の3)

厚別西の閑静な住宅街にある山本稲荷神社。鳥居を抜けて緑がうっそうとした境内に入ると、そのすぐ右手に大きな石碑が建てられているのが見えます。これが「謝恩之碑」です。

碑面には碑で文字で「謝恩之碑 衆議院副議長 椎熊三郎 謹書」と刻まれています。碑銘を揮毫した椎熊三郎は、小樽出身の政治家で、昭和21年の衆議院議員総選挙で初当選し、昭和33年には第39代の衆議院副議長に就任しました。

碑の背面には、山本地区の開拓の歴史が漢文で刻まれており、それには、

「當山本ハ元小樽故衆議院議員山本厚三氏ノ所有地ナリ 當時不不毛ノ泥炭濕地トシテ他ニ顧ミラレザリシヲ遠大ナル理想ノモトニ氏ガ開発ニ志シ北海道庁ヨリ附與ヲ受ケ後附近隣接地及野津幌砂山地區ヲ買収併合シ其反別七百五十町歩ヲ擁セリ 明治四十二年私費ヲ投ジテ開墾ニ着手シ山本農場経營ニ當ラレシガ打續ク水害或ハ冷害等ノ災害ニ禍イサレツツモヨク此窮状ヲ克服 尓來三十数星霜 其ノ間氏ハ常ニ我等ニ對シ温情ヲ以テ遇セラレ我等又其徳ニ報ゼンモノト凡ユル困苦欠乏ニ耐ニテ開墾

ニ從事スルト共ニ土地ノ改良ニ品種ノ改善ニ全力ヲ傾注シ来レリ 経營途上偶々我等農家ヨリ自作農創設実施方希望懇請セル処氏ハ時代ノ推移ヲ逸速ク洞察 其ノ意ノアル處ヲ了トセラレ物心両面ノ莫大ナル損失ヲモ不顧只管農家将來ノ幸福ヲ念願 昭和十九年末道内農地開放ノ先驅ヲツトメ農場全域ノ模範的開放ヲ實施セラレタリ 山本氏ノ美擧ニヨリ自立セル我々農民ハ以来十有餘年氏ノ意志ヲ継承愈々發奮渾身ノ努力ヲ傾ケ遂ニ全地域ノ成墾ヲ見ルト共ニ農家経濟モ亦漸ヤク安定スルニ至レリ顧ミレバ今日ノ我等農家ノ生活基盤ヲ爲スモノ一ニ山本氏ノ恩徳ニ外ナラズ 仍テ開発五十周年ヲ迎ウルニ當リ氏ノ御恩ニ感謝ノ意ヲ表スルト共ニ之ヲ子々孫々ニ傳エテ共ニ相励マシ永ク繁榮センコトヲ希イ茲ニ謝恩ノ碑ヲ建立スル所以也 昭和三十三年九月 依委嘱 元管理人 後藤一郎書之」

と刻まれています。

石碑の台座には「謝恩碑建設賛助者名」と、背面に「建設委員」の氏名が多数刻まれています。

神社の鳥居のすぐ左わきに説明板が建てられており、それには、

「山本稲荷神社・謝恩之碑

山本地区は、当初「本田」と呼ばれていましたが、昭和9年、開拓の祖山本久右衛門の子孫である山本厚三氏の姓をとって「山本」と改められました。

山本稲荷神社は、明治42年の山本農場開拓当初から、開拓者の心のよりどころとして祀っていた小祠が起源で、現在の神殿は、大正9年の再建。境内には、昭和33年、山本地区開墾50周年を記念して山本氏への感謝の意を記した「謝恩之碑」があります。

平成5年3月」

と記されています。

山本地区の名称となった山本厚三は、大正9年に小樽市議から衆議院議員に初当選した政治家で、碑面を揮毫した椎熊三郎の先輩議員にあたります。

もともとこの地域は海抜10メートル以下の低湿の泥炭地であったことから、農地には不向きとされていましたが、明治41年に小樽の山本久右衛門が土地の払い下げを受けて開発に着手し、翌年山本農場を開きました。その遺志を継いだ息子の厚三が地域をさらに発展させ、昭和19年には戦後の農地解放運動を待たずに一切の土地を小作人に解放しました。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(東部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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