「開墾大作碑」。

(あしあと その707・東区の27・栄町の3)

東15丁目屯田通を北進して行くと、百合が原公園の手前の東側に広がる畑が見えてきすが、そこに木々が茂る小高い丘があるのが分かります。丘の上には、大小の石碑が建てられており、その一つが「開墾大作碑」です。

台石に載せられた自然石の碑は、碑面の上部に「開墾大作碑」という篆額が刻まれています。その下には漢文が刻まれていますが、一部の文字は風化してしまい、判読することが困難になっています。正確に読み取ることはできませんが、その文章はおおむね次の様に記されているようです。

「故富樫傳右衛門君秋田縣仙北郡神宮寺町人本〇父曰進藤政吉世家来峯吉川村與我郷里刈和野相隣政吉為人沈毅有才略與我先考相〇来者久矣傳右衛其次子也出為富樫氏之嗣所者地價數

萬回為一村之豪農君有奇才而勇於義明治廿一年九月與妻弟常世〇治相謀挺身遷干北海道大募耕夫以應朝廷開〇北海道之〇實為秋田縣北地和〇之率先也〇干札幌而〇居焉得六十餘町歩之〇畢路藍縷親執斧斤率小民以啓山林操来〇先耕夫以辟草菜若此九年費金過貮萬圓〇是菑畬百五十八町歩連年洪水漲溢田畝復為荒原耕夫逃散者四十餘戸君困而意不衰志氣愈奮焉此治亦善輔之以身任作事終成土功即墾田三百餘町歩耕夫百五十戸總費金三萬五千餘圓此非萬金之力乃君精神積聚之所致也三十四年十月罹疾明年二月廿六日遂歿享年五十有八諡曰靈智院〇〇道契居士君好義而有慈明治十年獻金千貮百円以〇海防費二十八年日清之没〇〇及金凶〇捐鉅金以救恤窮民者數矣将刻干石以文属〇我家有舊故乃序之銘曰

精神之鋭 其利貫天 就義報國 作業粲然 素志勃勃 猶〇大〇 造物何事 不假〇年

東京帝國大學教授従五位文學博士根元(道則)撰

前札幌農學校助教授山崎〇書及篆額 明治三十八年〇〇〇〇十一月三日建」

富樫傳右衛門氏は、明治21年、44歳の年に小作人を募って郷里の秋田県から本道に渡り、当時の烈々布に入植しました。傳右衛門自ら指揮を執り、当初80ヘクタールを買い受けて始まった農地は、9年後には約2倍の広さになったそうです。その間、毎年のように見舞われた水害で離散する者が続出しましたが、傳右衛門は小作人に対する篤い配慮を以って開拓に専念し、農地は最終的に300ヘクタールにまで広がりました。この碑は、その人徳を偲んで小作人たちの手によって建立されました。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(東部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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