「札幌村郷土記念館」。

(あしあと その866・東区の33・本町の5)

東区内を抜けるように走る斜め通の途中にある札幌村郷土記念館は、大友堀の歴史に

関する資料や開拓当時の人々の生活に使われた道具類などが展示されています。

記念館の門の脇には説明板が立てられていて、そこには

「札幌市有形文化財及び史跡 札幌村・大友亀太郎関係歴史資料及び史跡[札幌村郷土記念館と指定文化財]

札幌村は、大友亀太郎により、慶応2年(1866)から開拓がはじめられ、札幌開拓の先駆となり、その後、わが国の玉ねぎ栽培の先進地として発展しました。記念館は、この郷土の歴史を語り継ぐため、昭和52年4月、地域の人々によって開設された資料館です。

大友亀太郎は、1834年に現小田原に生まれ22歳のとき、当時の疲弊した農村を救済し、復興・開発事業を行っていた二宮尊徳の門に入り、報徳仕法(農政事業)を学びます。

25歳のとき、江戸幕府による領土保全の開拓政策にそって北海道に渡り、現木古内町と七飯町に御手作場(開拓農場)を完成させます。33歳のとき、その実績により蝦夷地開拓掛を命ぜられ、石狩原野の開拓に関する長期計画を立て、同行者10名を伴って慶応2年4月に伏古川の岸辺に入り事業に着手、まず、約4㎞の用水路や橋梁、道路などを当時の最高水準の技術・機器をもって整備します。それは報徳仕法にならって開発のための資本等を導入し、産業の育成を図るものでもありました。また、用水路は未開の大地にしるした開拓のくさびであり、現創成川の前身として札幌の街づくりの東西の起点となります。

翌年、この地を札幌開拓の元村と定め開墾が進められ、周辺地区にも本州各県からの入植者が相つぎ悔恨も大きな広がりをみせ、明治4年、札幌元村は札幌新村と合併し、札幌村となります。その後、米国から持ち込まれた玉ねぎ栽培と販売が試され、明治16年に販売が成功して、本格的な栽培が普及していきます。

昭和62年2月、記念館収蔵の開拓に関する大友亀太郎文書、玉ねぎ関係の農耕具などの歴史資料は札幌のそして北海道の発展を知るうえで貴重なものとして札幌市有形文化財に、記念館の敷地は大友亀太郎役宅跡として史跡に指定されています。

札幌市・札幌市教育委員会」

と記されています。

記念館の前庭には、いくつかの石碑が並べて置かれています。



「歴史のあしあと 札幌の碑」(東部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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