「W・S・クラーク博士銅像」と副碑。

(あしあと その900・豊平区の115・羊ケ丘の1)

札幌の観光名所の一つである羊ヶ丘展望台に建てられた像が、「W・S・クラーク博士銅像」です。右手を水平に差し出して直立した像は、札幌市の内外に知られたとても有名なものです。

像の台座の正面には、クラーク博士が北広島の島松において離道する際、見送りの学生たちに発したとざれる有名な「BOYS BE AMBITIOUS」の言葉が刻まれています。また、その下にはクラーク博士の「W・S・CLARK」の署名が記された銅板がはめ込まれています。

台座の背面には、あまり読まれることがない由来が記された銅板がはめ込まれていて、そこには

「ウィリアム・スミス・クラーク先生は明治九年秋、開校した札幌農学校の礎を据えるため開拓使に招かれた。五十歳であった。

僅か八ヵ月の間に、フロンティア精神を植えるとともに偉大なる業績と感化を遺し、明治十年四月十六日島松で別れを惜しむ学生に対し馬上から”ボーイズ・ビー・アンビシァス” 少年よ大志を抱け と叫んで帰国された 

明治十九年三月九日、六十歳で北米アマストにて昇天される。

在天の霊、希くは安かれ・・・

昭和五十一年四月十六日 札幌市長 板垣武四 札幌観光協会会長 今井道雄」

と刻まれています。

またその下には、「W・S・クラーク博士銅像建立協賛 御芳名録」として多数の個人名と企業名が記された銅板がはめ込まれ、その末尾に「銅像彫刻 日展会員 坂担道」と記されています。

クラーク博士銅像に向かって左手に副碑が置かれており、その左側には

「BOYS,BE AMBITIOUS!!

明治9年(1876年)7月、北海道開拓の人材育成のためにアメリカから来道したウィリアム・スミス・クラーク博士(当時マサチューセッツ州立農科大学学長)が、札幌農学校(現北海道大学)初代教頭に着任しました。

博士が残した「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の名言は、北海道のフロンティアスピリットを代表する言葉として、全国に広がり、世々代々受け継がれてきました。

僅か9ヶ月の札幌滞在でしたが、自然科学などの講義のほか、「右手にはペンを、左手には鍬を」という理論と実践による教育、聖書に道徳教育など当時は画期的な授業内容でした。

翌年4月16日、北海道発展の礎を築き惜しまれつつ農学校での任を終えたクラーク博士は、教え子たちと島松駅逓所で別れを告げました。馬上からボーイズ・ビー・アンビシャスと叫んだ後「一鞭を与えて坂を登り、疎林の彼方に其影を没す」という訣別のシーンは、師弟愛が凝縮された感動的で格調高い一場面として記憶されています。

この荒野にこだまする訣別の辞は、時代を超えて、無類の躍動感と新鮮さを、いまになお伝えております。

クラーク博士が私たちに残してくれたものは、近代的な農業の導入といった実利面もありながら、ひときわ光彩を放っているのは、”精神の開拓者”としてです。

この博士の精神は、新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾、佐藤昌介ら、我が国の近代における思想、文化史に、さん然と輝く先駆者たちを次々と輩出したのです。

「丘の上のクラーク」像はクラーク博士が来道してから100年後の昭和51年(1976年)4月16日に、札幌市を一望するここ羊ヶ丘展望台に建立されました。

ブロンズ像 「丘の上のクラーク」 建立月日 昭和51年4月16日 彫刻者 坂担道 建立者 社団法人 札幌観光協会 説明碑文寄贈 平成17年6月16日 札幌クラークライオンズクラブ創立30周年記念」

と記され、右側にはクラーク博士の胸像を象ったレリーフが掲げられ、その下に英文とその訳文が次のように記されています。

「ボーイズ ビー アンビシャス!! クラーク博士のメッセージ

青年よ、大志を抱け!!金のためまたは利己的栄達の為でもなく、ましてや人よんで名誉と称する空しきもののためにでもない。知識に対して、正義に対して、かつ国民の向上のために大志を抱け。人としてまさにかくあらねばならなぬ全ての事を達成せんとするために大志を抱け。これはWhillam Smith Clarkのメッセージであった。

東北帝国大学農科大学(北海道大学農学部の前身)予科講師ポール・ローランド1915年」

「歴史のあしあと 札幌の碑」(東部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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