(あしあと その105・白石区の1・菊水の1)
豊平川右岸の菊水1条1丁目。堤防に沿って河畔公園が細長く広がりますが、通りを挟んだ向かい側のマンションの陰にある駐車場の奥に、大きな樹が目立つ手入れが行き届いていない空き地があります。
駐車場の一番奥を覗き込むと、大きな樹の根元に金属製の標柱が建っているのがわかります。それにはかすれた文字で、ここが「有島武郎邸跡地」であると記されています。
標柱の裏面には、「白石区役所 平成十八年十一月」と記されています。
有島がここに住んでいたことは、有島の代表作の一つである、画家木田金次郎をモデルとした「生まれ出ずる悩み」にも書かれています。
「私が君に始めて会ったのは、私がまだ札幌に住んでいるころだった。私の借りた家は札幌の町はずれを流れる豊平川という川の右岸にあった。その家は堤の下の一町歩ほどもある大きなりんご園の中に建ててあった。」
有島が住んでいた当時は、この場所に広大なリンゴ園が開かれていたことがわかります。ここに建てられていた邸宅は、現在は厚別にある北海道開拓の村に移築・保存されていて、邸内は見学ができるようになっています。
建物の前には説明板が立っていて、次のように記されています。
「旧有島家住宅
日本近代文学史上の代表的作家の1人である有島武郎〔明治11年(1878)~大正12年(1923)〕が明治43年(1910)5月から翌年7月頃まで住んだ建物である。
一般の住宅にも、上げ下げ窓などの洋風意匠を取り入れ始めた頃の建物である。」
建物内に入ると、玄関の三和土に説明板があり、屋内の平面図とともに次のように記されています。
「旧有島家住宅
有島の作品「生れ出づる悩み」の中に、豊平川右岸の、1町歩ほどもある大きなリンゴ園のなかにあった借家とあるのが、この家である。
当時有島は、母校の東北帝国大学農科大学(札幌農学校の後身、現在の北海道大学)の英語教師で、働く若い人達のための遠友夜学校の代表者でもあった。
この家で有島は「或る女のグリムプス」を書き、雑誌『白樺』に連載を開始した。」
室内には、有島が出版した作品の数々や、肖像画などが展示されています。
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