(あしあと その145・北区の3・北大周辺の3)
以前、このブログのあしあとの記事で紹介した「偕楽園」跡。その記事では、現在の偕楽園緑地の南側にある大原簿記情報専門学校前に設けられた説明板を紹介しました。今回は、この「偕楽園跡」に広がる偕楽園緑地の説明板を紹介します。
偕楽園緑地にはいくつかの入口がありますが、この緑地の東側の住宅の間にある入口に、札幌軟石の台座にはめ込まれた銅製の説明板があります。
向って右側の銅板は、偕楽園の周辺案内図とその拡大図が描かれています。
左側に並んだ銅板には、「開拓使時代の偕楽園の概略と現在の偕楽園緑地」と題する比較地図に添えて、次のような説明が記されています。
「開拓使が設置した憩いの場「偕楽園」
明治4年(1871年)、開拓使は、この地に市民の憩いの場である「偕楽園」を設置しました。日本の公園制度は明治6年の太政官布達によってはじまりますが、これにさきがけて開設された偕楽園は、日本で最初期の公園といえます。
かつてこの周辺一帯は、アイヌ語で「ヌプ・サム・メム」(野の傍らの泉地)と呼ばれ、泉が湧きサクシュコトニ川の清流が流れる景勝地でした。これに加え、偕楽園内には農業試験場やサケマスふ化場などが整備され、産業振興施設としても活用されていました。敷地内の清華亭は「開拓使貴賓接待所」として設けられた建物で、現在は札幌市の有形文化財に指定されています。
当時の札幌市民に親しまれてきた偕楽園ですが、明治15年に開拓使が廃止されると、土地の売却が行われたり周辺の市街化が進むなど、時代の流れとともにその姿は変わっていきました。
現在の「偕楽園緑地」は、かつての偕楽園の一部であり、くぼんだ地形に先人が親しんだ水辺の面影をとどめております。」
また、この入り口から緑地内に足を踏み入れると、園内に整備された歩道の傍らに北区役所によって建てられた別の説明板が建てられています。それには、
「偕楽園跡
明治4年(1871年)開拓使によりこのあたりに公園が設けられた。「民と偕(とも)に楽しむ」と言う意味から「偕楽園(かいらくえん)」と名づけられた。日本で最初に計画的に造成された公園と言われる。その後、農作物や鮭孵化の試験場などが設けられ、明治の中頃まで北海道の産業振興の中心地となった。また、明治13年(1880年)には貴賓接待所として清華亭(市有形文化財)が建てられた。ここは、かつて園内を流れていたサクシュコトニ川の池があったところである。」
と記載されています。
現在の偕楽園緑地は、かつての偕楽園内を流れていたサクシュコトニ川の水がたまってできた池の名残であり、それはこの緑地がくぼんだ形状である事からもうかがえます。一時は水源が枯渇して途絶えてしまっていたサクシュコトニ川の流れは、現在は北海道大学の構内で再現され、キャンパス内を北上するせせらぎになって、道行く人の気持ちを和ませてくれています。
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