「板橋地区跡」。

(あしあと その217・白石区の5・北郷の2)

東米里にあったゴミ処理場の跡地に沿って走る市道。江別市大麻から西方向に向かい、道央自動車道の高架をくぐってしばらく走ると、右手に十数本の雑木林が目につきます。

うっかりすると見落としたまま走り抜けてしまいますが、よく見るとこの雑木林のすぐそばに説明板が建てられているのがわかります。それは、白石区で建てた「白石・歴しるべ」の説明板で、そこには「板橋地区跡」と記されています。

道路脇の側溝の向こう側に建てられた説明板には、

「板橋地区跡

札幌で消滅した地名に、「板橋地区」がある。

昭和20年(1945)の東京大空襲のため、戦災者北海道開拓協会・東京都・北海道が一般公募した「開拓農兵隊」に応募し、終戦間近の7月6日東京から疎開してきた人々のうち、東京都板橋地区の10世帯が、この地域に翌年4月入植した。

当初1戸当たり2町3反歩(約2.3ha)の農地割り当てを受けたが、農業経験者は1人もいなかった。

その後、農地の追加を受け5~6haの所有者となったが、水害にも見舞われ、自分の食糧を得るのがやっとで、水害のたびの救済事業や内職でなんとか生活を維持し、開拓は筆舌に尽くせないものがあった。

この板橋地区の離農を早めたのは、水害常襲地であったことが第一の要因であるが、「道央自動車道」や札幌市の「環状夢のグリーンベルト構想」による、土地転用への動きが重なったためでもあった。」

と記されています。

かつてこの地域には、太平洋戦争から波及した東京大空襲の戦災から逃れてきた家族が、札幌市周辺地域の開拓のために入植しました。この東米里には、東京都板橋区からやってきた10世帯が入植しましたが、彼らは農業の経験が全くない商売人ばかりで、水はけの悪い土地を開拓するのは至難のわざでした。彼らの出身地から「板橋地区」と呼ばれたこの地域は、海抜約8メートルとたいへん低いうえに、豊平川をはじめとする大小8本の川が流入し、低湿地帯が広がるとても水はけの悪い土地でした。豪雨などで川が氾濫すると、1か月もの間水没した状態が続くこともあったそうです。やがて河川の整備が進められて水害は少なくなりましたが、昭和56年の大水害によって、高齢化した入植者たちはこれ以上土地を維持することが困難になり、土地の転用構想の好機と重なったことで土地を離れていきました。今ではこの「板橋地区」という地名は幻となりつつあります。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(東部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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