「新渡戸稲造博士顕彰碑」。

(あしあと その408・北区の30・北海道大学の4)

北大構内を南北に走る中心路のロータリーから北上して、総合博物館から西方向に左折すると、その奥にポプラ並木が見えてきます。その並木の手前に花木園があり、入り口の奥に「新渡戸稲造博士顕彰碑」が置かれています。

顕彰碑は、白御影石でできた台座の上に、新渡戸博士のブロンズ製の胸像が置かれています。

台座の正面には、新渡戸稲造氏の直筆の署名と、その下に氏の著作の中の一文である「I wish to be a bridge across the pacific」の言葉が刻まれてます。

台座の背面には、説明が記された銅板がはめ込まれています。

その説明板には、次のように記されています。

「第二次世界大戦前の日本を代表する国際人・教育者であり、「五千円紙幣」の肖像としても知られる新渡戸稲造博士(一八六二ー一九三三)は、明治十四年、二期生として札幌農学校を卒業した。博士にとって札幌は、キリスト教に基礎をおく人格と、広い学識を身につけた「精神的誕生地」である。卒業後の一時期、開拓使御用掛に籍を置き、黎明期の北海道開拓に力を尽くしたが、学問への情熱断ちがたく、明治十六年、東京大学に再入学した。さらに、アメリカ、ドイツに留学し、米国人の妻・メリー夫人を伴って帰国した博士は、明治二四年から七年間、母校の札幌農学校教授として、当時閉校の危機にあった農学校の立て直しと学制改革に尽力し、のちの北海道大学の基礎を築いた。勤労青少年のための教育施設である遠友夜学校の創設(明治二七年)も、農学校教授時代の貴重な遺産である。その後、博士は京都帝国大学教授、第一高等学校校長、東京帝国大学教授、東京女子大学学長などを歴任し、人格、社会性、教養を重視した教育によって戦前・戦後の教育界に多大な影響を与えた。さらに、名著『武士道』による日本の精神文化の紹介、国際連盟事務次長としての平和文化活動は、博士の名声を国際的に高めることになった。

この顕彰碑は、北海道大学が札幌農学校創立から数えて一二〇年を迎えるのを記念し、卒業生を中心とした数千人の篤志家の浄財によって建立された。碑文の一句は、博士の英文著作から引用した。「太平洋の橋にならん」とした、若き日の理想を語ったものであり、サインは直筆である。

一九九六年一〇月七日 新渡戸稲造博士顕彰碑建立事業会 発起人代表 堂垣内尚弘 碑文揮毫 丹保憲仁 彫刻制作 山本正道」

新渡戸博士の功績を讃えた碑は、遠友夜学校の跡地にも残されてます。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(東部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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