「水車ゆかりの地」碑。

(あしあと その677・豊平区の81・水車町の2)

豊平川に架かる南大橋の豊平区側にある札幌市立旭小学校の校地内に、小さな庭園が造られています。場所は、東側に設置された校門から入ってすぐ左手になります。

庭園は、コンクリート製のひょうたん型の池の凹み部分に太鼓橋が架かり、その奥に水車小屋が建てられています。

小屋の脇には白御影石でできた石碑が置かれており、碑面には、

「水車ゆかりの地

こゝ水車川のほとりかつて水車は休みなく回り続けた」

と刻まれています。この石碑を支えているのは、水車を象った札幌軟石です。

石碑の背面には、「昭和六十二年五月吉日 寄贈者 小川裕嗣氏 故牧野平助翁碑移転を記念して」と刻まれています。牧野平助翁のことについては詳細はわかりませんが、明治20年に発行された、当時の札幌の著名な建築物を収めた「札幌繁栄図録」という版画図集に、「蒸気水車精米所 牧野平助」と題された版画が掲載されており、何らかのつながりがあるものと思われます。「故牧野平助翁碑」が移転されたことが記されていますが、その経緯については今後調べていきたいです。

庭園内にある水車小屋は復元されたもので、一度窓が開いた状態になっているのを遠巻きに見たことがありますが、かつてこの辺りで利用されていた水車の精米などをするための仕掛けとなっているようです。

庭園の入り口に設置された説明板には、

「水車川の歴史と水車

昔、豊平川の支流の一つに水車川がありました。水車町5丁目の蛇神社のあたりから豊平川と分かれ、水車公園を通り南七条橋のあたりで、また豊平川と合流していました。

この川では当時、精米(お米を白くする)や製粉(麦を粉にする)をしており、そのために水車が大活躍をしていました。

その仕組みは、水車小屋の中に再現されています。流れる水の力で水車が回り、水車の中心にある心棒が回ります。心棒の先に「きね」があり、水車が半分回ると「きね」が高く上がり、さらに半分回ると「きね」が下に落ちます。これを繰り返し、「うす」の中に入っている米や麦が挽かれます。

昭和の時代になりこのような役割もなくなってきました。

やがて水車川は埋め立てられ、現在では学校の東側にある遊歩道になっています。現在の水車は当時のものを復元したもので、ビオトープとともに子どもたちや地域の方の憩いの場として旭小学校のシンボルとなっています。」

と記されています。

説明板にあるように、水車川は現在は暗渠となっており、その一部には遊歩道が設けられています。水車川の起点となる位置にあるとされる「蛇神社」とは、現在の「難得神社」のことで、蛇を供養するために建てられたことから「蛇神社」と呼ばれています。小川の流れに沿って幾つかの水車が設置されていたことから、この川は水車川と呼ばれるようになり、この川がなくなった後も、その名前は現在の水車町に引き継がれています。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(東部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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