(あしあと その259・白石区の9・菊水元町の1)
菊水上町から南7条米里通を米里方向に向かうと、JR函館本線のアンダーパスがあります。そこを抜けて菊水元町に入ったすぐのところで左手の住宅街に入り、グルリとJR方向に戻っていくと、道路沿いに菊水いちい幼稚園の建物が見えてきます。
この園庭の壁際に、「菊亭侯爵入植跡地」と題された白石歴しるべの説明板が建てられています。それには、菊亭脩季(ゆきすえ)の肖像写真とともに、次のような説明文が記されています。
「華族(清華家)の菊亭脩季〔安政4年(1857)~明治38年(1905)〕は、伯父 三条寛美の意をくみ明治11年(1878)北海道に渡り、翌12年3月開拓使官業課に勤務した。
明治15年開拓使廃止の後、農商務省札幌勧業育種場詰を命ぜられ、続いて明治16年3月北海道農業管理局事務取扱となり、同年札幌農業事務所副所長となった。
明治17年侯爵に叙せられた。
明治19年5月、願によって官を辞し、9月上白石村において農園を経営した。
記録によれば、<東京府華族、当時上白石村寄留>となっていた。
明治22年12月、三条寛美、蜂須賀茂韶(もちあき)、戸田康泰(やすひろ)等と共同で雨竜原野約5万haの貸下げを受け、華族組合農場を経営するが、この頃、上白石寄留地を離れたものと思われ、上白石に居を構えたのは明治19年22年までの短期間であった。
当時寄留家屋のあった所に、本州から取り寄せ移植した黒松が残っている。
また上白石村に寄留したゆかりの地一帯を、菊亭の「菊」、豊平川の「水」にちなんで昭和29年(1954)、地名を菊水と改称した。」
この説明板の左側には「野坂の黒松記念保護樹木」と記された説明板が建てられており、園内にひときわ高くそびえたつ松の木について、
「この木は、明治の半ばに、京都の公家、菊亭修(脩)季侯爵が、故郷をしのんで、自らの手で植えたもので、樹令は100年以上になると推定されています。
白石地区は、主に白石藩の人々によって開拓されましたが、公家の人たちも開拓のくわをふるいました。
この木は、その名ごりとなっており、白石の開拓の記念木として保護されています。」
と記されています。
この地に菊亭侯爵が入植したことによって、この地が菊水と命名されました。
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