「逆川」。

(あしあと その512・白石区の31・菊水元町の2)

道央自動車道の札幌ジャンクションのすぐ近くに、菊水元町と米里の境界に当たる用水路が流れています。それは暗渠から顔を出して豊平川に合流する200メートルばかりの小河川ですが、その河川敷として囲まれた柵に説明板が立てられています。

説明板の左側には、大正5年当時と平成4年当時の周辺地図が掲げられ、それぞれ「逆川合流部」と逆川の「新合流部」という説明が付されており、その右側に、次のような説明が記されています。

「逆川

月寒川と望月寒川が合流して豊平川に注ぐ下流部は逆川と呼ばれた。豪雨や雪解け水で豊平川が増水すると、水位の低い月寒川に流れ込み、逆流するからだ。

米里地区は毎年繰り返す洪水で発展が遅れたが、低湿地の利点を生かして稲作が盛んになった。明治27年(1894)に逆川に米里水門と灌漑用水路が設けられ、飛躍的に米の作付面積が広がった。

昭和40年(1965)頃から本格的な河川改修が行われ、堤防工事、排水口の設置などが行われ、昭和41年頃には月寒川の流れを豊平川下流に切り替える新水路が完成し、逆流することがなくなった。これにより逆川は短くおとなしい川となり、上流部は暗渠(地下水路)化されて昔の面影はなくなった。」

米里地区は、明治23年に9戸の開拓者が入植したことにその歴史が始まります。その当時この地域一帯は、数多くの河川が豊平川に合流する低湿地帯で、早くから稲作が広く行われてきたことから「米里」と称されるようになりました。しかしながら、度重なる河川の氾濫は地域住民に多大な被害を与え、都市化にも影響を及ぼしました。そこで河川の改修が行われて水害を抑え、地盤も改良されて急激に宅地化が進みました。

「歴史のあしあと 札幌の碑」(東部版)

「歴史のあしあと 札幌の碑」 ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑や記念碑が気になり始めました。 歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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