(あしあと その338・白石区の18・中央の3)
白生公園の一角にある「開田碑」の右側には、「白石村水田発祥の地」の説明板が立てられています。
それには、左側に「昭和23年頃撮影の米軍航空写真では、白生公園付近一帯は水田地帯だった」と解説がされた白黒写真が掲げられ、その右側には、
「白石村水田発祥の地
明治の初め、北海道は稲が育たない地として、もっぱら麦と畑作が農業の中心でありました。
この地に入植した旧白石藩士の人たちは、明治7年に故郷から種籾を取り寄せ、稲の作付けを試みましたが、厳しい気象条件に打ち勝つことができず、一粒の米も収穫出来ない年が続いたのです。
しかし、こめに対する強い思いと、旧白石藩士としての団結心で、この白生公園一帯の荒れ地を共同で開墾、明治16年、初めて79俵(約5.5キロリットル)の収穫をあげたのでした。白石米第一号の誕生です。
その後も、日照りや冷害、病害虫に強い稲の品種改良を重ね、その努力が実って、毎年、少しづつ収穫をあげていくことができました。
白石村の稲作成功は、やがて、札幌近郊に稲作を広めることとなり、水田経営の模範としてたたえられたのでした。」
と記されています。
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